少し前にサバイバルファミリーという映画を見たのですが
これは現代日本を舞台に平均的な一家族を主人公にして、あらゆる電気が使用できなくなったらどうなるのか?というようなお話。
具体的に言うと、電気が使えなくなった世界で一般的なサラリーマンである父親が
家族を守るべく大いに奮闘するのですが、その行動が時にコミカルで現代人の無力さや情けなさ
また現代が電気というものにいかに依存した社会なのか、といった事を浮き彫りにしています。
この映画の狙いはそういった震災以降の電力問題にフォーカスしたものだと思われがち?なのかもしれませんが
気になったのはやはり現代社会の弱さや、現代における価値の倒錯を浮き彫りにしているようにも思えます。
それが垣間見れるのが、中盤位に出てくる畜産農家のおじさんの存在。
シーンでは家族が息も絶え絶え、空腹に苛まれながらそのおじさんと出会います。
彼はそれが生業とは言え、日常的に豚等の家畜を飼い育てたりしてる訳ですが
そのおじさんに「捌いてみろ」と言われ、泣く泣く父親と息子が豚を捌くのですが、これは何か考えさせられるものがありますね。
現実社会では勝手に酒造したり規定内の家畜屠殺を行う事は違法なので、一般には既に商品として作られたものをお金で買っています。
しかしこういった危機的な状況下、お金や電気があまり意味をなさなくなった時
現代人が見えなくなってしまっている価値や、本来大事にされるべき生産力や技術なんてものが明確に見えてくるような気がします。
冷蔵庫から何から何まで電気に依存している現代人は、電力以前にはもう戻れないという事も物語っており
これは技術の不可逆性とも言われる事でもあります。
例えば電力を担ってきた原子力、防衛としては核兵器ですが、そんなものは要らない、各国合わせて皆で廃棄しよう、核不拡散条約なんて言っても
それはあくまで理想や建前であって、現実には核技術の知識自体はなくなりませんし、一度知ってしまった知識そのものは捨てられません。
各国が廃棄したのを確認した後、自国だけが隠し持っていれば容易に世界を支配出来る、なんて考える国がないとは言いれません。
またそうなった場合には、時すでに遅しになっちゃいます。
こういった技術の不可逆性については、別に電力や核技術に限らず、車や電車等の社会インフラ全般に言える事ですね。
また現在のそれを甘んじて享受してきた人間だけで現在投資すべき将来世代の社会インフラなんかも明らかに要らないと言えるのかは疑問が残ります。
先進国が発展途上国に対して「これ以上増えたら、環境大変だからおまいらはダメ」なんていった国家間の問題もありますね。
もともと資源のない日本は、それを良くも悪くも輸入して独自に加工、ローカライズしてきた今までの下地もありますので、その他の新たなエネルギーの可能性も含め、こういった問題は続いていくのでしょうね。
映画サバイバルファミリーを通して、本来の価値基準や、自身も含め現代人の弱さと欺瞞が見えたような気がします。
力の価値
今から約17年前に起きた附属池田小事件、通称、小学生無差別殺傷事件。
この事件で容疑者が法廷内で語った事が印象に残っています。
どういう事を言ったかについては様々なまとめがあるので詳しくは割愛しますが
やはり感じるのは力の支配力や重要性なんじゃないでしょうか。
現代ではなにかと法治国家だとかなんとか言われますが、確かに法は民を守るかもしれません
が、それはあくまで事後的にであり、その瞬間には守れません。
場合によっては法自体が悪影響を及ぼす可能性だってあるかもしれません。
そこで現実的に守れる、対抗できるのは、やはり力なんだという事ですね。
だって法律違反だー、なんていくら騒いだところで、さらさら守る気がない奴やISの様な集団に囲まれたら法なんて何の意味もありません。
それは2016年にバングラデシュの首都ダッカで「私は日本人だ、殺さないで」と懇願するも
日本人7人が全員が殺された人質テロ事件でも目の当たりにした事のように思います。
つまりあくまで法は力を背後にした強制力があって初めて効力を発揮できるもので
現在でも時の政府が機能していない場合や、もしくは腐敗しているとされた場合等に
そうした軍事クーデターなんかは世界中で起きていますね。
これは先に書いた映画のお話と通底しているものがあります。
またこの附属池田小事件で少し気になったのは容疑者の生い立ちである、父親からの厳しい教育やそこから垣間見える家族関係かな。
常に変容する価値観
世の中には正論という概念があります。
「~であるべき」なんていう論調をそう呼んだりするようですね。
「はい、論破ッ」なんていうのをたまに見かけたりしますが、ああいった剥き出しの自意識を見るたびにニヒリズム指数が上がってしまいます(笑)
イメージ的には、ちびまる子ちゃんの丸尾君のような真面目な学級長が、先生に進言している姿が浮かびます。
「ズバリ、そうでしょー!」 ・・・そんな丸尾君はお察しのとおり大体報われません。
「まあまあ、もちつけ」なんて逆に先生に嗜まれたりしちゃいます(笑)。
そんな丸尾君がコミカルに見えるのはおそらく、共感力や論以前の柔軟性みたいなものなのでしょうか。
教育でいえば、どんなに星一徹ばりな「正しい教育」なるものを受けても、または行ったとしても
それを強制したり、当の本人の性質が合わない場合、または段階、状況じゃない事なんていくらでもありますね。
その限りではありませんが、マウンティングというか、基本的に強制した時点で信頼は生まれにくくなりますし
そこに共感が感じられないとなおさらかもしれません。
この辺に先ほどの附属池田小事件の容疑者の生い立ちにも繋がってくる様な気もします。
机上の空論とはそういった質や状況、または当然ある感情を無視した一種の強引な単純化や
傲慢さが引き起こしているような気もします。
中野剛志氏の日本思想史新論で紹介されていたことですが、江戸時代に伊藤仁斎等が活道理と死道理という概念を提唱していたようです。
当時の朱子学上の理という一種の経典のように硬直した理念体系に対し、うまく実際には動かない道を死道理とみなし
一種のプラグマティックでより現実に根差した道を活道理という言葉で表現したと言います。
確かに規範通りではある、だがむしろ規範を守る事が目的化している、そんなことを死んだ道理、死道理と呼んでいたんですね。
これは学問、ビジネス等あらゆる分野でよくある事かもしれません。
計画したがその通りには行かない、理屈は正しいが現実味がない事なんて山ほどありますね。
計画する事自体や、データを把握するのは重要ではあるし理屈は正しいかもしれない
しかし実際は複雑に様々な要素が絡み合っており、認知しているものもあれば認知出来ない事だってある訳ですね。
そうなると良くも悪くも分からない部分は出てきますし、万が一うまくいかない可能性だって十二分に出てくる訳ですよね。
その他、よく見かける儒教的な「~であるべき」前提なんて沢山ありますし
そういった類の同調圧力は訳もなくよく襲い掛かってきます(笑)。
結論ありきな硬直した論というものが、いかに単純化されたただの同調圧力
または手段を目的化したかのような一種の倒錯であるのかというのかが分かります。
人に言っているようで、実は自身にブーメランの様に襲い掛かかり
最終的に自身に対する呪いにもなってしまう。
客観性は大事ですが、常に自己評価を思考停止的に他人や社会に依存してしまうと
しょうもない価値観に従わなくちゃいけなくなりますし
結果的に自分を苦しめる事になるという落ちが待っているのかもしれません。
まとめ
という訳で、人間社会が持つ習性みたいなものですが、自身もそういった呪いに陥りますので人間の不完全さを表しているとも言えますね。
またこれは社会批判においても同様で、体制批判と大衆批判、どちらも人間がやる事ですから極論に行き過ぎず
少し肩の力を抜いて常に幅や遊び、ユーモアを持ちながら、やはり両輪のバランスが大事ってことなのでしょうか。
「結論ありきの決定論に陥らないように両極端の均衡点に立つ不安に耐え続ける。by 小浜 逸郎」
・・・うーんまあ人間誰しも間違いますから、柔軟性を保ちつつも、いわゆる衒学やスノビズム的な記号化されたインフォメーションや常識でもなく
良識とかコモンセンスとか、建前とか本音とか、そこらへんを行き来するしかないのかもしれません。
中々難しいですが、本来の価値をしっかり見据えながらも、柔よく剛を制す、でありたいもんでやんす。
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