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デフレとニヒリズムとアートマン

【起】終わらないデフレ経済

現在まで続くデフレ経済がなぜ異常なのか?というのは様々な専門家が言及していますので、知らない人は興味あれば調べてみてほしいのですが、

色々知っていくと現在の表出している問題の下地にはデフレ圧力があることが分かると思います。

 

 

このデフレの異常性というのは、ほっておくとデフレスパイラルという過当競争がデフォになってしまいます。

そうなってしまうと、物が売れなくなる → 売れないから価格を下げる → 利益が減るから給料が減る → 給料上がらないから買えなくなる → 儲からないから投資を減らす → さらに物が売れなくなる~なんていうエンドレスな負のスパイラルになってしまう訳ですね。

そらこんな異常な状態を20年以上やってれば、仕事はあるけど価格が安すぎて赤字とか、倒産とか、非正規、リストラ、若者の〇〇離れは起こるは、コスパ主義やら、少子化になるわ、ブラック企業がはびこるわ・・・etc

全てがデフレのせい、なんて言わないまでも、甚大な影響があるのは明らか。

なので現在の様々な問題は一企業や一地方、個々の問題以前に、デフレ圧力が背後にあるという事も考慮しないといけません。

 

国の借金問題なんてのもそうですが、そもそも国は別に営利企業ではありません

無駄は省くべき、だとしてもやるべき借金は未来への投資であって、その中では当然ですが必ず失敗も出てきます

今があるものも過去の政府や企業、個人等の様々な投資があったからで、それがバブル崩壊から現在まで停滞しているとすれば

確実に将来に影響していくでしょうし、既に様々な問題として表出しているとも言えます。

 

またそんな事を長く続けていると、多くの民はこう思うようになります

「どうせやっても儲かんないし、意味ないやん、やらない方がマシやん、マジ卍ー」

「老後も心配やし、浪費に使わず貯めこんだ方が得や~」

「これじゃあ結婚も無理、子供なんて到底無理、結婚とかコスパ悪すぎ」

「理想の職業は公務員です」

「働いたら負け」

「自己防衛、投資(おそらく投機行動の事を言っている)、海外移住、日本脱出だよね」(自己防衛おじさん)

こうして誰しも、解決すべき政府までにもリスク回避を望むするようになり、「破滅へ向かって」by X japan のように滅びの道へ突き進み、結果として受動的ニヒリズム(虚無)が蔓延する訳である。

つまりはこれはニーチェのいうところの一種の末人であり、ニヒリズムがはびこる大きな要因になっていると思われます。

 

 

【承】世に蔓延るニヒリズム

19世紀後半頃、ニーチェは本来の人間が持つ価値観は「強い事は素晴らしい」等といった「騎士道、貴族的価値観」が正道であり、それをキリスト教やユダヤ教が逆転させ、弱者であることを恥じる事のない価値観「僧侶的、道徳的価値観」を広めたと批判しました。

そうした今でいうところの社会主義的な価値観は非自然的価値観だといい、それは弱者のルサンチマン、つまりは綺麗ごと、偽善であり卑屈な負け惜しみだと主張したといいます。

また「神の死」以降の世界で一体民は何を信じ、どう生きていけばいいのか?、またそういったニヒリズムに陥った態度は2つあり、それは

  1. 何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)。
  2. すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。 by wiki

そこでニーチェは1ではなく、2の積極的ニヒリズムであるべきだと主張しました。

「結局虚無なのは分かった、じゃあ開き直って弱者であっても自らが基準となり肯定して生きてくしかない」みたいな、概ねそんな事を主張した訳ですね。

 

なんだろう、改めて思ったのは、こういった超人思想とリバタリアンが図らずも混じりあい

「黙れ小僧ッ、全ては欺瞞だ、信じられれるのは自分だけ、そして我は世界の警察官だーッ」

もしくは「弱いのは全て自己責任、努力不足だ」みたいな極論が生まれたのでしょうか。

 

世の中に善悪がなく、動物的な強弱しかないと仮定すれば、自由主義的な弱肉強食が正道となりますね。

現代で言うところの自己中、エゴイズム、利己主義なんていう人間像が見えてくる様な気もします。

 

ま、ニーチェは当時のキリスト教が勧める普遍的愛とかいった欺瞞を軽蔑し、それが奴隷根性に基づくものだしていたようですので

そういった倒錯した依存的な生き方ではなく、人間が自然に持っている純粋な力への回帰を主張したかったのでしょうか。

※ニーチェのいう高貴なるものと、オルテガのいうエリートとの違い、カントのいう理性、独断論と懐疑論・・うーん、そこらへんに何かありそうですが、オツムがオーバーヒートしてしまいます。

 

ま、話を戻して、現実の物事というのはそういった積極的ニヒリズムを持ってしても

怖いもの知らずな中二病になったとしても、中々うまくいってはくれません。

・・・こうなったら温故知新、もう古典どころか、

世界最古の深い哲学的思索と言われるアレでお茶を濁すしかありません(猛爆)

そう我らがヤージニャヴァルキヤぱいせん、出番ですよ(誰やねん)  

 

という訳で、「梵我一如」の先覚者で、およそ紀元前750年~前700年の人物とされる

古代インドの哲人ヤージニャヴァルキヤのお話でもして、

自我をゲシュタルト崩壊させてみましょう。  

 

 

【転】アートマンは認識出来ない

東洋哲学が興味深いのは、始まりが自己の探求だと言われていて、

外に向かった西洋哲学とはちょうど反対の視点を持っていたというところが、何だかロマンを感じますね。

ちょうど科学と医学みたいな関係なのでしょうか。・・いや全然違うか。

 

それはともかく、ウパニシャッドは仏教以前から存在していたようで

そんな中で最強の論客とされていた人物がヤージニャヴァルキヤ氏だったそうです。

 

有名なのは

アートマン(自我を成り立たせている原理)とブラフマン(世界を成り立たせている原理)は同一のものだ

という「梵我一如」の思想を広めたといいます。

 

その他、アートマン(自我)は認識する主体そのものであるから、認識出来ない。

故に不滅であり、破壊もなく、執着もない、束縛もない、害される事もない、なんて事も言ったとされています。

 

ではその「アートマン(自我)は認識出来ない」って何?って事なんですが、その理屈を理解するのにちょっと込み入ってきます。

まずアートマンというのは自我という事なので、要は自意識の事ですね。

この自我ってのが厄介で、一体自我って何なんだろう?と考えたのがウパニシャッドやそこから始まるバラモン教や仏教の根底にあるみたいです。

 

例えば日常で誰しも自分自身について色々考える事があると思うんです。

コンプレックスやら、もっと要領が良くなりたいなぁとかなんだかんだ。

では、そんな時に思っている自分という主体とは厳密には一体何のことなのでしょうか?

 

そもそも主体なんてものがあるのだろうか? それは身体の事なのでしょうか?

それとも脳の事?はたまた心?・・・いや切り離せないから全て合わせて自分だよ、なんて通常は考えますよね。

 

しかしもう少し厳密に踏み込んでいくと、自分を意識するという事は、あくまで自分の意識内で起こる意識現象としてある訳ですよね。

つまりは脳とか体とか、何かしらの個別の物体を自分と認識しているのではなく

意識内の自分の全体像をなんとなくモヤッと認識される一種の意識現象と言えると思います。

 

意識内で認識するという事は

A「認識される者」の対象者と

B「認識する者」がいる事になる訳ですが

ではAの「認識される者」である自身を認識する場合、

Bの認識している者ってのは一体誰なのでしょう?

はたまたそうやってBを認識しようとしたその時、今度はBを認識するCがすかさずまた現れてきますよね。

そうして合わせ鏡のように、どんどん無限に増えていってしまいます。

これを「無限遡行」と言うのですが、つまりこの意識現象で示されているのは

「認識する主体は絶対に認識出来ない」という事を示していて、自身を認識するという事が成り立たない事を表している訳なんですね。

 

「いや、その無限に増えた自分も自分やん、客観するのはあくまで疑似的にやん」と突っ込みたくなるかもしれません。

しかしそこがポイントで、実際の唯一の自我が無限増殖する訳はありませんから

(ペルソナという意味では複数の仮面はあるものの)、あくまで疑似的にしか出来ない訳ですよね。

 

つまりは実際は認識しているフリ、または自分がある、と思い込んでいるだけであって

本来は「自分は〇〇ではない」といった消去法みたいにしか言う事が出来ないんだおって事を

紀元前からヤージニャヴァルキヤは言っていたわけです。

 

しかし日常的には「私は〇〇です」と認識出来ると間違って思い込んでいます。

そこにあらゆる不幸が起きると主張した訳です。

 

映画館に例えていえば、そのスクリーンに映し出されるものが現実世界で、それを見ている観客を自我だとします。

その映画がどんなに出来が良くても、そこに感情移入し、同化しようとも観客は全く影響を受けませんよね。

なぜなら映画でどんなに不幸な人間が描かれていても、素晴らしい人間が描かれていても、観客がその人間になれる訳でもなければ、観客が束縛される事もありません。

それは現実世界でも同じで、物理的に体が束縛される事はあるかもしれないし、体が害されて痛みを感じる事はあるはあるかもしれない

しかしそれを観客(自我)はただ見ているだけに過ぎないという事なんですね。

 

つまりは物体としての身体の痛みや、起こる感情や生物としての欲望なんかはあるにしても、

「認識する主体は絶対に認識出来ない」為、ただただ鑑賞しているだけで、自我を害することも動揺する事も、何かに執着することも出来ようもないものなんだ、と言っている訳です。

 

本来、認識出来ないものを意識する事も、概念化する事も攻撃する事も出来ませんから

表現すら出来ない絶対不可侵領域みたいなものだという事ですね。

なのでそれに気づけばあらゆる不幸が消え去り、そこからアートマンとブラフマンは同一であり不滅なのだ、という境地にまで至ると言っている訳です。

 

うむ、なるほど。ニーチェが言ったこの世に真理等はないというニヒリズム(虚無主義)とも違うし、

そういう境地に立てれば、デフレやニヒリズムなんてものは意味はなくなりますね。

だって自我は認識出来ない訳ですから、例え国、いや地球が亡ぼうとも、体が朽ち果てようとも、サビ残を強要されようとも(笑)、

そんな事はアートマン(自我)とは関係ねー・・・・っていうね・・・なんだろう・・この半端ないちゃぶ台返し感・・それは死と同様の事なんじゃあ・・

 

・・・そうか、だから不滅なのか・・・(悟り)

 

【結】分別知と無分別知のパラダイム

という訳で、何だかアクロバティックなオチですが、あくまで素人の戯言なので興味あればいろいろ調べてみるのもいいと思います。

それぞれ主張には当時の時代背景や、文脈が大きく関わっていますし、現在においては様々な解釈や意見があります。

 

いやインフレよりデフレ経済が良いんだ、なんてマゾヒズムもいれば

いやいやニーチェなんて捨てるべきだ、とか

ウパニシャッドについては、そもそもの前提として輪廻転生という永遠に繰り返される死への恐怖からの解脱の為だった

なんて背景もあったようです。

 

色々ありますが、それぞれがまた一つの知識にしか過ぎませんので、あまり極端にならないよう

思考実験には良いのかもしれません。

 

ちなみにうっかりアートマンの話をしちゃうと、まず確実に伝わりませんので

神経解剖学者であるジル・ボルト・テイラー氏が脳卒中時に体験したお話が参考になるかもしれません。

 

紀元前のヤージニャヴァルキヤと現代科学を繋げる何かなのか、興味深いところです。

(ヨウツベの字幕ボタン押したら字幕が表示されます)

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