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結果論とコロンブスから見える音楽的動機

作曲をしたり、様々なアーティストの楽曲を聞いていると、ふと展開が読めてしまうことがある

これは音楽に限らない事ですが、沢山の前提条件がある以上避けられないとはいえ、とりわけ作る側は自ずとそういった作者目線で見てしまうもの

人間の記憶方法という観点からも、ある一定のパターンを認識して記憶するような連想的な記憶パターンもあるようなので、そう認識してしまうのは必然かもしれません。

そんな時ふとシェーンベルク先生よろしく、やはり音楽は出尽くされたのかな?思うこともあり

現在一般的である十二平均律上の調性音楽を基盤と考えた場合、自ずと限界性を感じてしまうのかもしれません。

 

また、コロンブスの卵の様に「誰にでもできそうなことでも、最初に行うことはむずかしい」という事も同時に物語っていて

だからこそ先人達への敬意が持てるのとも言えます。

一度聴いてしまったら以前には戻れない、音楽にも不可逆性があるという事かもしれないなぁ・・

 

・・・と、本来そこで終わってしまう話なのですが、ここはあえて

「そんな事言ったってしょうがないじゃないか」と囁くゴーストの声に耳を傾け

問いそのものを問い直す形で深みにはまってみる

 

困った時のそもそも論、という事でとりあえず以下三点土台に作曲動機という観点から考えてみる。

Q1:そもそも本当に出尽くされたのか

Q2:新しさとは一体なんなのさ、それっておいしいの?

Q3:そもそもの既存ジャンルの音楽的構造について

 

Q1:そもそも本当に出尽くされたのか

まずこの出尽くされたという言葉の中には、暗黙的に含んでいるいくつかの前提が見え隠れしている。

その一つが、作曲は音楽的更新を目指すべきだという極論とも言える前提

それは限定された結論へ誘導していると考える事が出来るかもしれない。

 

そもそも既存の展開ですら膨大なパターンがあり、全てを網羅する必要もなければ、

逆に変な展開をすると残念な仕上がりになるケースも往々にしてあるという事も踏まえなくてはなりません。

 

もう一つは、現在一般化されているような記号化された西洋音楽理論をベースにした認知体型や、美的価値判断、

もしくは商業音楽的基準によって、認識を狭めてしまい何らかの誘導を引き起こしてるのかもしれない、

という個人的なうがった見立てというか、一つの推論を立ててみたいと思います。

 

現在ではネット上の情報含め、ピンキリですが様々な教則本や理論書等が手に入ります。

古典的な学習方法だったり、バークリー的なメソッド等、様々なものを参考に理解を深める事が出来るので豊かな時代と言えます。

そうして様々な知識や技術を学び、習熟する事によって各々が最適な表現の選択が出来るようになっていくといった建前ですね。

 

ベーシックな音楽理論はあくまで楽曲の構造やそこで何が行われているのか?といった機能的な解釈をベースにしており、

それは人間でいうところの人体の解剖書や生物力学的な解釈にあたりますので、そこに良いも悪いもない

腎臓はこういう機能だとか、目はこういう役割だとかですね。

そこで言えるのは精々、この機能は大事だとか、指の可動範囲とか、筋肉の動き方とか(個人差があります的な)、そういった構造的な指南と言えます。

なのでその機能を使って何を表現したいのか?といった楽曲の核心部分というか、背景のような根本的な動機部分は、受け手が想像するか作曲者本人が明言するしかない訳です。

 

また作曲者ですら無意識に漠然と作曲してる場合も多くあるし、そもそもそんなもんは形ないものなので確認のしようもない。

 

そしてその漠然とした動機って何だろう?と考えた時、もう一段深い階層である、謂わばその作曲者の直感や感性だと考えた場合

個人の趣向の違いや、もう少し広く捉えると文化間の違いによってなんとなく認識出来るのだと思います。

※生物的な動機であるモテたいとかいう、そうした動機は音楽的動機ではないのでここではスルーするー。)

 

人体の美で例えると、外国から取り入れた黄金比のようなものや、独自の美の感覚が混然一体となっていたり

そもそも美に対してパーツ的、物質的な顔や体の作りだけで定義できるものなのか?

なぜ黄金比的なシンメトリーが美しいと感じるのか?なんていう問いも含んできてしまい、どんどん曖昧になっていきます。

そうなってくると、そのベースには何らかの価値観、つまりは慣習(歴史)や思想が根底にあるという事になってきますね。

 

何が言いたいのかというと、そうした慣習や思想を元に動機が生まれているとしたら

そこから専門的、技術的に切り取った解釈の仕方、これを近代西洋的解釈だとすれば、それ自体が様々な関連からの分断や、価値基準の画一化によるそれぞれの絶対性の喪失を生み、

結果的には多様性や動機の不在(一種のニヒリズム)に至る一因になるのではないか?という一つの可能性です。

 

勿論、ここまで一般的に理論体系化し学べるものは他にはありませんし、その歴史を知れば知るほど奥深いものであることは言うまでもありません。

また専門的に学ぶ場合、というよりも学問自体が本来的に分類を前提としているものでもあります。

 

ま、そら専門的に学んでる時にいきなり精神的な話や、文化的な話をしても非効率ですし、ほとんど無駄話とされちゃいますね。

しかしそうして記号化された情報の広がり(インフォメーション化?)と同時に見えることとして

出尽くされた論に見られる閉塞感にも、良くも悪くもグローバル化され、画一化された果てともいうべき事と同一の現象と言えるのではないか?という事ですね。

 

逆に考えれば西洋音楽の文脈でいくら考えても、例えばタイの伝統音楽やインドネシアのケチャの様な動機はそもそも出てきようがないということであったり、またその逆も然り。

 

変な話、あるべき音楽的動機が個人商店であるならば、商業主義とも絡み合い、知らず知らず大型ショッピングモール的発想に呪われているのではないか?

 

勿論、これは個人的な戯言なので、本当にそうななのかは分かりませんし、起きていたとしても、おそらく最終的には個人レベルで暗黙的に再統合しているのだとも言えるかもしれません。

他のエントリーに書いているような多極化や分散化という言葉から見える問題、相対化による絶対性の喪失や、分別による非統合性という観点から推測しただけに過ぎません。

ここまで深堀り、いや無駄堀りして自ら混乱する必要はまったくないと思いますが(笑)

その前提となっているテーゼを問い直し、絡まった紐を一つづつほどいていくしかないかもしれません。

 

Q2:新しさとは一体なんなのさ、それっておいしいの?

では逆に、新しさって何のさ?って事ですが、その前提は様々で、具象的(調性)表現から抽象的(無調)表現にシフトした近代音楽の様な調性からの逸脱であったり、モダンジャズだとビバップからハードバップを経て、和声進行から脱却を図ったモードジャズへの移行等。

・スポーツ的に音階を駆使したアドリブ重視のビバップ「Charlie Parker-Billie’s Bounce」


チャーリー・パーカー・ストーリー・オン・ダイアル Vol.1(SHM-CD)

・ビ・バップとR&Bが持つ大衆性が共存したハードバップ「Art Blakey & the Jazz Messengers – Moanin’」


Moanin

・和声進行から脱却を図ったモードジャズ「Miles Davis – So What」


ソー・ホワット

・ラップや生ドラムンベースを取り入れたクロスオーバー「Erik Truffaz – Yuri’s choice」


Dawn

上記等はバークリーメソッド的によく紹介される内容ですね。

細かく言えば形式や、和声や音階からの逸脱、ジャンルで言えば何かしらの新しいスタイルなのか、クロスオーバー的なもの、ミクスチャー的なもの等々、大枠は脱構築の流れだと思うけど

多重的で複合的なレイヤーが存在します。

 

音楽は基本的に普遍性をもっているものでもあります。

しかしその普遍性は上述したように基本的な構造や生物力学的なことでしかありません。

 

それは各地方の方言のような伝統音楽や、音楽ジャンルごとで見た場合によくわかる事ですが

それぞれが基本的な型というか、TPOとも言えるようなコンセンサスが共有されているように、それぞれの前提を枠にして、個人差はあるにしても旋法的な特徴や、和音、リズム等の特徴等によって表出している訳ですし

逆に言えばそれが良くも悪くも趣向や壁となっていて、そのコンセンサスをもとに方向性も趣きもまるで違います。

 

Q3:そもそもの既存ジャンルの音楽的構造について

分かりやすい例だとBABYMETALやPerfume等のアイドル系でいえば、音楽的にはあくまでも調性音楽内でのミクスチャー的手法により上田剛士やNARASAKI、中田ヤスタカ等によるニューメタルやテクノポップ系の楽曲に

日本のアイドル的なメロディや声をのせた形、それがアイドルシーンでは新たな表現であったと言える訳ですね。



ギミチョコ!!

なのでそういったクロスオーバー的な場合は、マインド的な意味合いにおいても純文学ならぬ純メタル(笑)ではありませんので

それまでの型を大事にするメタラーからすれば「こんなんメタルじゃねーDEATHッ、HATEッ」となる場合もありますね。

あくまでアイドル音楽の文脈から派生したミクスチャーとして楽しむ事が出来るのだと思います。

 

またこれは当然な事かもしれませんが、上記あくまで大枠の設定の話であって、その先にある本質とも言うべき旋律や和音等が基本的な音楽表現とすれば

そういったそれぞれの枠や文脈から出発して、あるべき世界観にそった旋律を浮かびかがらせていくという事なのでしょう。

 

なので一概に新しさとは言っても多様であり、本来は何らかの目的の為の手段だという事だと思いますので

それぞれの文脈を見ずに音楽的更新や、構造的優劣ばかりに注目したところで、あまり意味は見いだせないと言えると思います。

 

まとめ:新しさよりも生み出す動機がえにくい時代?

音楽の起源や歴史からみた場合には、根源的にはコミュニケーションや儀式が動機で、それは時代によって宗教であったり、各地方の特色であったり様々。

近年においては商業音楽や、スラムやゲットーのように社会的マイノリティによる主張、パンクやヒップホップ等、レベルミュージックとも言いますが

そういった側面が多種多様な文化を生み出してきた背景でもあります。

 

その他、近代音楽と美術史の印象派の類似性、音階や枠を超えようとするジャズや、ノイズ系等とジャクソン・ポロック等の抽象主義表現等の類似性等も含めると、概ね時代による思想をもとにした主義主張、もしくはそれ以前へのカウンターが主軸の動機となる場合が多い。

つまりはそれぞれの思想やパラダイムを土台とした動機をベースに、それぞれの表現手段として音楽的更新があったと考えた方が自然かもしれません。

 

うして動機となる背景や文脈から考えてみれば、そのベースとなる動機自体を切り離し、技術論のみにフォーカスするような出尽くされた論自体に破綻が含まれていると考えられますし

むしろ無意識にせよ、意識的にせよ、日常的でささやかなものから重いテーマまで

様々な揺るぎない自身の動機なくしては何もありえないのだという事が浮き彫りになってくるのだと思います。

・・・怖いのはそれって思想的な部分なので、大げさに言えば全てに関係してくるであり、今までの歴史や現在の社会も関わってくる根深い話って事ですね・・・なんて。

 

まとめ

そんなところで、独断と偏見によるセルフ反論で分かったようなふりをしてみましたが、どんどん無駄に泥沼化してしまうので(笑)、ここらでまとめると、

Q1:そもそもその出尽くされた、という問いは適当なの?

A1:出尽くされた論は技術的側面をフォーカスするあまり、動機の不在をもたらす結果論。なので技術論に矮小化せず、それぞれシーンの文脈やそこから見えてくる動機が肝。「ブルーノートってなに?」と問いたとて不毛。(作られた時代や環境があってそれが表出しただけ)

 

Q2:そもそも各ジャンルがなぜ様々な音楽様式である必要があったのか?

A2:各地域の食文化と同様に、それぞれの文化的背景や社会的要請等、様々な複合的な動機に基づき、各々の文脈で目的を達成する為の手段だった、つまりそれはクジラ食べる必要なくね?と同様であり、当時の各々の感性に基づいた試行錯誤の結果。

 

Q3:新しさとは一体なんなのさ、それっておいしいの?

A3:新しさって得てして技術論の文脈で語られる事が多く、それは何かしらの動機を達成する為の一つの表現手段であり目的ではない。だって逸脱すること自体が目的になっちゃうと、それはおいしいかおいしくないかで言うとゲテモノに類する事が多いので主食になることは稀  (バッタが主食になるには越えなければいけない壁があります、というか誰も超えたくねぇ)

 

またこれも現時点での一つの推測に過ぎないので、明日になったら変わっているかもしれません。

ま、そもそも人間なんて矛盾だらけでいい加減なもん(必殺ちゃぶ台返し)ですし、考えたってしょうがないのだと思った今日この頃でした。

 

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