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演繹(独断)と帰納(経験)のポリフォニー

ニコ生の「山田玲司のヤングサンデー」聞いているとき、ふと何かに似てるなー・・はて?なんだったっけ?・・とグルグルしてたんだけど、

はたと、近代哲学の「演繹法(大陸合理論)と帰納法(経験論)」と、メルロ=ポンティのセザンヌ評」まで繋がってしまったような気がするので、忘れる前に備忘

 

まず演繹法と帰納法ってなにかというと、簡単に言うと思考法や論理構造の違いで、遡ると当時の思想的な立場の違いに繋がっているみたい。

演繹法は古くは大陸合理論に繋がっているようで、フランスのデカルトからはじまる17~18世紀の近代哲学の認識論。

帰納法はイギリス経験論に繋がっていて、近代においてベーコンやロックが体系化したとされています。

ちなみに、それを批判的に欠点を指摘し、最終的にまとめてドイツ観念論を作り上げたのがカントと言われています。

 

ではもうちょっと具体的に見てみると(以下ひろい)

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大陸合理論(演繹法)

「大陸合理主義は、人間は生得的に理性を与えられ、基本的な観念・概念の一部をもつ、もしくはそれを獲得する能力をもつと考える。

また、理性の能力を用いた内省・反省を通じて原理を捉え、そこからあらゆる法則を演繹しようとする演繹法が真理の探求の方法とされた。(出典:wikipedia)」

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人間には先天的に神に与えられた理性が備わっているというのが大陸合理論の立場。

この世に存在する偏見や謬見、あるいは真実らしく見えているけど不確実なことなど、疑う余地が少しでもあるならば否定していき、普遍的な域まで達すれば、誰もが了解できる認識、つまり「我思う故に我在り」といった、絶対的な共通了解に至ると考えていたようです。

またデカルトの「神の存在証明」では、「人間は神という概念を知っている、故に存在しないとならない」みたいなことも言っていて、なんだが量子力学の二重スリット実験みたいなお話。

 

経験論への反論としては、不完全な人間に見えているもの、経験していることが真理なのか?むしろ経験という偏見が邪魔しているんじゃないか?という立場ですね。

アインシュタインの有名な言葉にも

「常識とは10代までに身に着けた偏見のコレクションである」というのがあるし

独断論(ドグマティズム)とも言われ、ヤンサンの文脈でいえば「覚醒コンテンツ側」と言えます。

 

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経験論(帰納法)

「人間は生まれたときは白紙である」というロックの言葉が表すように、人間は観念を生まれつき持っているという生得説(デカルトらが主張する大陸合理論)を批判し、観念は経験を通して得られると主張する。このような観念より、帰納法、因果律を重視していく立場をとり、客観的な知識の源泉を経験や観察に求める。

合理論への反論として、人間の認識は主観的で相対的であるとして、絶対的態度を疑い、後天的なものによって変わると主張した。

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いつまでも昔の常識を同調圧力なんて形で押し付けられても困るよね。

ただ相対主義なんで、そこらへんがニヒリズムにも繋がっている気もするし、ヤンサンの文脈で言うと「麻酔コンテンツ側」

時に教条的になる合理論に対し、よりリアリストなプラグマティズム(実践主義)にも繋がっているみたいで、あらゆる価値が相対化した神なき後の現代の感覚に近い。

 

で、実際は絡み合ってるけど強引に思考法で分けるとすれば、

【合理論】

絶対化、先天性、演繹法、理性重視、ひらめくアイディア、推論を重ねていく数学、英語で「演繹する」はdeduceで、外へと向かう。左翼や共産思想(設計主義)、独断という意味では独裁かな。あと多分ロックで言うと理想主義のメタル(笑)、大体西洋人の思考らしいけど宗教とか言語とか関係ありそう

 

【経験論】

相対化、後天性、帰納法、因果律、調査やマーケティング、まとめ、理科の実験、英語で「帰納する」はinduceで、中へと向かう。右翼や保守思想(経験主義)、統計的な民主主義もそうですね。あとリアリストのパンク(笑)、日本やアジア系の思考らしいけど宗教とか言語とか関係ありそう

 

次にそれぞれ欠点はというと、

【合理論の欠点】

合理論はドグマに陥り、現実から剥離したおしつけがましいものになる。

または正しくない、あるいは使用するのが適切ではない前提(机上の空論とか主観が入った事実、設計主義かな)を用いてしまうことがあること。

例えば、地球では重力がある当然の前提ですが、地球を出たとたん通用しなくなりますね。

・・・ま、正に今の主流派経済学じゃまいか。

 

【経験論の欠点】

現実におきている事象というものを、正確かつ全て把握するのは困難なので、理論は頻繁に再構築する必要がある。またどれだけデータを集めたとて、それは確率は上がれども、どこまでいっても論理的必然性は分からない。

 

【でもどっちも必要】

カントは理性にしろ、経験にしろ、そもそも人間の認識には限界があり、人によっても認識が違うため

外部の対象が主ではなく人間の認識そのものが主だよね(コペルニクス的転回)ってことで、それぞれを批判して統合したと言われています。

まあ、本質(宗教でいう真理やイデア)についての理解を断念する方向へ向かってしまっては本末転倒なので、どちらも欠点があるけど、どちらも必要ってことじゃまいか。

 

 

ヤンサンの話に戻すと、玲司先生に限らず、何かを生み出し作る漫画家やアーティストは自身の価値観をもとに、俺はこれが好きなんだー的に絶対化してみたり、何かしらの信じてる価値が表出してしまうもの。

その為、独断(つまり非属)で突っ走ってしまう場合もあるけど、だからこそ商業等(人気とか大衆性)に固執することなく、偏りがあるものの、優れた少数や非属の独断、アイディアになりやすいってことだと思います。

 

対するおっくんポジ(つっこみ)、もしくは一般論の場合だと、自らの経験や歴史、その共有に求める帰納的傾向があるので、価値が相対化してしまいます。

要は演繹的な「誰もが了解する疑いようがない認識」、普遍的事実ではなく、人それぞれみたいな話で終わってしまったり、大衆の傾向でしかなくなってしまう。

歴史や多くの経験(つまりは過去)から測ろうとすると、未経験の事象や、まだ見ぬ斬新なアイディアみたいなものは生み出し難くく、マーケティング的になってしまうので、いわばスーツ側思考(統計的)と言えそう。

 

Amazonなんかでよくおすすめが表示されるけど、あれってあくまで、Aを購入した人はBも購入する傾向があるってことだけで、自分と趣味が近い人からのピンポイントなお勧めなんてのとは全然ちがう。

だってあれってそもそも中身を見て判断してないよね?

 

つまり帰納的に多くの事象をまとめるという事は、結局は民主主義(マス化)のようにバランスしてしまい、統計的な納得感はあるが、突出した優れた意見にはなりにくくなる。

バランスのとれた意見(作品)と、優れた意見(作品)は同じではない(by 柴山桂太)ってことなのか

ここらへんを理解できれば民主主義を単純に多数決と考えてしまうことや、統計情報自体はただの傾向であり、正しい解釈や事実を求めるものではないことが分かると思います。

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ちなみに日本は良くも悪くもドグマなき神道であったり、島国という地理的な特性がベースにあるせいか、国民の多くが帰納型な向き(皆に合わせる)があるようで、それは先の敗戦理由として挙げている分析もあります。

 

ピンドラ回でもおっくんはキャラの関係性や、自らの経験から理解しようとする(経験しないと分からないから)のに対して

玲司先生は普遍性や作者の独断(もしくは提案?)を評するというバランスで成り立っていて、どっちも分かる部分があるので、そこらへんが白熱する部分かな

もちろん分かりやすく二元論にしてるので、実際には絡み合い、グラデーションしてるので、おっくんの独断的な観点も面白いのだけど。

 

で、二つ目の「メルロ=ポンティのセザンヌ評」

一般的に芸術家や作品を語る際に、その芸術家の人生から作品をひも解く事があるけど

ヤンサンの横山大観回でも、その作家の人生から作品を説明していたおっくんに対して

玲司先生や久世氏は「作品と作家の人生は別なのでは?」みたいな事を言ってたと思う。

 

そこらへんについて哲学者のモーリス・メルロー=ポンティのセザンヌ評でも、こうした人生から作品を説明する方法は芸術家の「企て」に迫るものではないと評していました。

中々ハッとする言葉だったので以下↓貼り貼り。

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「~作られるべき作品がこうした生を要求した、というのが正しいであろう。セザンヌの生はその初めから、

いまだ将来のものである作品に支えられることによってのみ、均衡を見出していた

彼の生はこうした将来の作品の企てであり、作品は予兆として彼の生の内に示されていた。」

「画家はけっして空虚の中で無から創造するのではない。

画家にとっては、自分の見ているがままの世界や、自分のかつての作品や〔先行する画家の描いた〕過去の

さまざまな作品のうちにすでに下書きされている溝をさらに推し進め、

以前の画面の片隅に現れたアクセントを再び取り上げて一般化することだけが問題である。

…… 超出しながら継承し、破壊しながら保存し、変形しながら解釈する、つまり新しい意味を呼び求め予期していたものにこうした新しい意味を注ぎ込む、というこの三重の捉え直しは、単におとぎ話の意味での変身、奇跡や魔法、暴力や侵略、絶対的孤独における絶対的創造なのではなく、

それはまた世界や過去、先行の諸作品がこの画家に求めていたものへの応答、つまり成就、友情でもある。


 

・・何だか壮大で良く分かりませんが(猛爆)独断に至る経緯みたいなお話。

帰納的推論で読み解くのは、あくまで傾向であって、それだけでは論理的必然性は見いだせないし、ゆえにそれ自体が動機になることもないってことかな。

一つ一つは個別なスタンドアローンであり、本来はそれぞれの論理的必然性が存在すると仮定すると

あらゆる懐疑をくぐり抜けた自身の動機となるドグマや、信念のような絶対性が必要になるのか・・・と、なんだかニーチェパイセンが言っていた話に近く、やはり近代以降の宿命みたいな話なのかと思ったお話でした。

 

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