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労働集約型から資本集約型、知識集約型へ

昨今いわゆる「働き方改革実現会議」で「賃金引き上げと労働生産性の向上」が取り上げられる等、たびたび日本の労働生産性が話題になります。

それついての正当性や是非なんてのは詳しい人達にまかせる事にして、ここでは少し違う視点から考えてみたいと思います。

 

生産性と聞いた場合、何を思い浮かべるでしょうか。

一般的に話題になりやすいのは漠然と一人当たりの生産性を思い浮かべると思います。

作業効率なんていうところの、つまりは投入された労働力に対してどれくらい利益や数をこなせたか?なんていう単純な理屈ですね。

それを従業員の育成的な観点から考えた場合、いかに個人のパフォーマンスを最大化できるか?なんていう話題をよく見かけます。

例えば、マルチタスクの推奨(実は非効率みたいよ)や、長時間労働の抑止、評価制度をつかってインセンティブあたえ、動機付けを行ったり、インフラ的な側面から労働環境をよりよくしたりなんてところでしょうか。

 

しかしもう少し大きな枠組み、企業経営における生産性という視点で見た場合の労働生産性の定義である労働装備率、設備投資効率なんてところは、ほとんど語られていないように思います。

調べてみると、

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・労働装備率とは、使用総資本のうち、土地、建物、機械などの固定資産が、従業員1人当たりどれくらい使われているかを示し、機械などの新鋭設備をどれだけ積極的に導入しているかや、従業員数が適正水準にあるかなどを表しています。

・設備投資効率とは設備(有形固定資産)を用いてどれだけ付加価値を創出することができるかを見る指標であります。

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労働者側の一個人のパフォーマンスが問われるならば、そもそも経営者側が上記の様な設備等を適材適所に投資できているのか?というのも同時に問わなくてはいけませんよね。

 

競争社会だ、自由だ、自己責任だ等と言われましても、この現実社会の需要なきデフレ下においては、竹やりで戦車に立ち向えと言われているようなもの・・・


違う、そうじゃない 

 

そもそも一労働者の生産性や、一企業の生産性なんてものは微々たるもので限界がありますし、

経済活動においてマクロ的にもっとも重要で多大な影響力があるは、政府の財政政策やインフラです。

 

例えば、その地域の道路整備は十分なのか?なんてところは移動に関わる産業、またはその商圏を考えた場合、大きな要素となります。

つまりは比較的インフラが充実している都市部と地方ではその土台、つまりは歴然とした現在までの投資格差があるんですね。

 

そうやって一企業ではどうにもならない不可抗力的要素が基盤にあるので、都市部と地方を比較するのは地理的にも、それまでの投資格差を見てもアンフェアな場合が多く、その土地の基盤や適性が大いに重要と考えるべきだと思います。

 

またこの生産性を考える前提には、その産業が労働集約型なのか、知識集約型なのか、または資本集約型なのか、といった観点で分けて考える必要があります。

※以下ひろいもの

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労働集約型(労働集約的)産業とは

労働集約型産業とは、事業活動の主要な部分をマンパワーに頼っていて、売上高に対する人件費の比率が高くなる産業の事を意味しています。売上を増やそうとするとその分労働者が必要になる産業。事業活動にとって労働力が重要で売上高に対する人件費の比率が高い産業です。

例・・・機械化が進む前の製造業、飲食店や宿泊業、コールセンター、IT土方、トラックやタクシーの運転手、大規模化や機械化が進んでいない形態での農業、建設業等々

 

資本集約型(資本集約的)産業とは

資本集約型産業の分かりやすい例が、機械化が進んだ製造業です。工場を建設して、生産設備を準備してしまえば、維持や管理を行うための僅かな労働者で、事業を続けていくことができます。事業活動の中心が生産設備であって多くの労働力を必要としない産業。

例・・・機械化が進んだ製造業、大規模なインフラを整備する電気業やガス業、様々な産業で機械化は進んでいるため、労働集約型産業から資本集約型産業へと転換が進んでいくと考えられます。

 

知識集約型産業とは

知識労働、頭脳労働が事業の中心となる産業の事です。人の労働が必要という意味では労働集約型産業の一形態で、付加価値をつけやすく、差別化を図りやすい産業ということになります。

例・・・医薬品製造業や情報サービス業、ソフトウェア開発、アート、デザインやファッション等々

※ひろいもの終わり

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生産力というのは個人の能力や労働力の話ではなく、むしろ公的なインフラ整備等の政策や、上記の様に企業側による適切な設備投資や、質を変えたりすることが重要だという事が分かります。

 

また現実はより複雑化しており、例えばアニメーター等は本来知識集約型産業でありますが、やりがい搾取等とも言われており、産業構造から労働集約型の非正規雇用や、裁量労働制のフリーランス等の低賃金労働者がいなければ成り立たないようです。

デフレ圧力により、百円均一のように安く作るということが目的化してやいないか


産業変動の労働社会学――アニメーターの経験史

 

無駄を省けとばかり国の政策までも緊縮財政になると、人は増やさない(増やせない)、設備投資しない(出来ない)のが暗黙の前提となり、人的労働力の生産性というところばかりに注目してしまい、様々な解決策についての思考もどんどん硬直化していきます。

またそのツケは相対的に流動的で不安定な安い労働力という社会的弱者に皺寄せがきてしまいます。

昨今のパートや非正規雇用の拡大、ブラックなんて言葉に見られるような形で顕在化していき、上記でいうところの安い労働力に頼る労働集約型になる。

つまりこうして政府の間違った緊縮財政、デフレ政策に対応するかたちで、無意識にデフレ型ビジネスモデルに変わらざるをえなかった訳ですね。

 

もちろん結局は人間が判断する訳ですから、育成という意味においても個人の能力が重要なのは当然だけど

だからといって投じるべき投資(機械化や簡素化)を軽視して生産力を労働力のみに依存し、個人の能力だけを求めるのは

既に思考が硬直化してる証左といえますね。

 

またこういった向きは、既に先の大東亜戦争を分析した野中郁次郎氏や5人の共同研究者共著の「失敗の本質」で指摘されていたりします。

 

その指摘をいくつか箇条書きにしてみると・・・

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・戦略発想が硬直的(硬直した議論)

・日本は一点豪華で、その操作に名人芸を要求したのに対し、米国は平均的軍人の操作が容易な武器体系だった

・ある部分は突出してすぐれているが他の部分は絶望的に立ち後れていた

・米軍は演繹的、日本軍は帰納的。

 演繹的 = 既知の一般法則(抽象化、客観的、普遍とかそんなとこ)によって個別の問題を解いた米側に対し

 帰納的 = 経験した事実からある一般的な法則性を見つける事に終始してしまった(個別具体で属人的、つまり場当たり的かな)

 ※↑に関しては面白かったので「演繹(独断)と帰納(経験)のポリフォニー」で考察してみたよ

・あらゆる議論は最後に空気によって決定された

・組織の行為と成果との間にギャップがあった場合には、既存の知識を疑い、新たな知識を獲得しなければならない

そのためには既存の知識を捨てる学習棄却(unlearning)、つまり自己否定的学習ができるかどうかポイントになるが

帝国陸海軍は既存の知識を強化しすぎて、学習棄却に失敗した

・日本軍はある意味において、たえず自己超越を強いた組織であったが、往々にして、その自己超越は、合理性を超えた精神主義に求められた

そのような精神主義的極限追求は、そもそも初めからできないことがわかっていたものであって、創造的破壊につながるようなものではなかった

・零戦は入手と加工が困難な超々ジュラルミンを使用したため、大量生産できなかったのに対し、米側は機体の平準化を徹底し大量生産した(出来た)

・米軍は戦争の間にテニスをする余裕があったが、日本軍には、悲壮感が強く余裕や遊びの精神がなかった

・よく言われる事は兵站軽視、食料備蓄が無く持久戦が行える状況では無かった

・上記は日本の高級将校が無能だった事の証左でもあり、逆に下士官、一般兵は白兵戦に強く頑強で勇敢であり、世界最強ともいわれた

零戦(零式艦上戦闘機)、パイロットの技術なんかもそうですね。

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これは改善の為の研究ではありますが、「たられば」の側面もあるので、そういった喧々諤々な戦略的、または歴史的文脈は学者やミリオタさん達に任せるとして

そうした日本的向きが敗戦に至った理由とされています。

 

うーん・・・なんだか現在も同じような事してる気が・・

 

よく言われるところの機械化や簡素化すればいいとこを精神論、竹やりストロングスタイル的なマンパワーで乗り切ろうというノリ。

ちょっとずれるかもしれませんが、話題になったからどうだの、東大出だから等々・・・・結果からしか価値を計れなかったり、朱子学的な肩書やステータス、形式的な○○すべき、であるべき論、世間的空気等に注視するあまり、その目的をまったく見ない

ファック野郎(脳筋タマ)なばかりな気もします。(自省)

 

 

そもそも金銭や社会的認知度とかいう表面や、結果からしか価値が計れないというのは、何も分からない(つまり相対的態度)と言っているようなもの。

もちろん一人の人間で計れることは限られるし、事によっては手順というか、プロセスが大事だったりもするので、それこそ決定論に陥らない為の戒め。

 

機械や技術自体に頼り過ぎて度が過ぎれば、前のエントリーで紹介した映画「サバイバルファミリー」的な倒錯となってしまいますし、

安い労働力というのは基本的に発展途上国モデルであり、先進国である現代日本(既に衰退国化してますが)においては未だに売りにする事自体がナンセンス極まりなく、そんなもんは個人にとっても社会にとっても悪い事でしかない。

 

話を戻してまとめると、生産年齢人口が減少していくことはほぼ確定しています。

であれば、未だに労働者だけに生産力を求め、いつまでたっても育たない、集まらない労働力を求めて人材不足だー、と嘆いても意味がないですね。

 

で、よく言われてる解決策と思われるのはの5つ

①緊縮政策をやめ、金融緩和、適切な財政支出を継続し基盤を整備する。消費税を上げるなんてのは論外で求められるのは減税です。

②AIやIoT技術しかり、労働集約型から資本集約型や知識集約型へのゆるやかなシフト。人が少なくなるなら一人当たりの所得や消費をどう増やせるかにシフトするしかありません。

③その場合そこだけをつまんでも意味がないので、その上部構造である街づくりやライフスタイルといった中長期的な視点でより大きな枠組みでイメージする事や

国→都道府県→市町村→個人といったの役割や地理的特性と、隣国や隣町との関係性のの繋がり、それと時間(歴史)といった大きな視点も重要になると思われます。

④とはいえ労働力は必要なので、賃上げや人材育成、職種限定、時間限定、地域限定社員制度の拡充、テレワーク等の推進、福利厚生の充実等、ゆるやかな労働環境を作る投資減税。またはベーシックインカムによる最低保障によって、様々なアイディアを試してみる土壌を整備するのもいいのかもしれません。

⑤え?・・ああ、そうですか、無理ですか・・では思いきってクーデター(NOT大塚家具)

(いや冗談ですけどね・・ダメですよ?・・絶対にダメですよ?・・霞が関をピンポイント爆撃するなんてぜっ~たいにダ)

 

・・ま、ここまで書いておいてなんだけど、0に何をかけても0になのと同じように、上記の内容も手段の話。

生き残る為に維持する事は大事ですが、本来はそもそもなぜ生き残らなければならないんだっけ?といった目的自体を問う事のほうが大事だし、その時にやっと

ビジネスごときの話右往左往する事はなくなるのかな?というお話でした。

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One Comment

  1. 特に異論がなさすぎでコメントもありません。同じように考える方もいるのだなという、感想にもならない感想でごめんなさい。

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